tsutsugouのブログ

研究者見習いの日記

つげ義春じゃない

 昨日、ふろに入ったが、入らなかったと思うことはできた。なんならそう信じれた。

 第一記憶が曖昧だ。だからできる。そして風邪を。していたから、わたしは、できた、風邪の日は風呂に入らないことが多い。

 しかしそれは一般論だ。だから、わたしは風邪の日だってばんばんに風呂に入るのだがな。わたしは病気です。といわない。みんな知る。見ればわかる。みればわからないやつもある。そういうのは大変だ。でも、病気とは?健康的なものからの逸脱。しかし、健康とはなにか?生物的に生きれることか、社会的に有用であることか。なにの判断からだろうか。あと障害と病気は違うのか。一時的かどうかなのか。しかし、わたしは、わからない。

 思うのは、わたしたちのまわりにも、そういう傷ついた人はいることだ。隠れている。しかし、いるのだろう。しかし、隠れているからそれとはわからない。わたしは

「あなた、疲れてるわ」といわれたとき

「いえ疲れてませんよ」

といっちゃうほうだ。そして後悔するのだ。

「いえばよかった!」

と。そのとき、ある時刻がきた。というかそれはつねにだ。つねにくるのだ。時刻がこない、あるときらないのだ。

 その時刻は、なにか、意味があるのか?わたしには信じれない。しかし、ある時刻が、まさに、刻印されたのだ、脳だろうか。そのときのわたしの脳はじんじんとしていた。

 時間。時間とはなんだろうか?わたしにはよくよくわからない。しかし、なんというか、わたしも病人なのか、うまく時間を組み立てられない。

 時間はわからない。時間は、たとえば小説のようだ。というよりも、わたしの思う小説がそうだ。

 カッとなる。それは秒針が。そしてその時間を、わたしはわたしを中心に組織化できない。わたしは、あらゆることにおいてここにいるのだろうか?わたしが見た、わたしが聞いた、わたしに来た、わたしに殴られた。みんなわたしを中心に因果の道にしたいらしい。

 しかし、わたしは、よく思うに、ときたまわたしであるだけで、けっこうお留守で。なにしろ、よくよくみれば、わたしはわたしのことをうまく記憶できないから、なかなか時間を組み立てれない。

 始まりからといわれても、思い出せない。ぷかぷかと浮かぶ、これが連想というのだろう。しかし、そうでなくては、わざわざ思い出しはしないのだ…。

 ああつまらない、とわたしは、つげ義春の人物が一言くらいいっていそうで、しかし多分いっていないことに思いあたった