tsutsugouのブログ

研究者見習いの日記

人生

 わたしは、わたしである。これを揺るがせにしては困る、けれどみんな実は揺るがせにしてはいないか?

 わたしは、わたしだという。しかし、子供でもわかるが、わたしは、ちょっとずつ老いたりする。成長もする。それに、わたしたちは、「ああ今までの人生とは…」といいたくなるような転換が起きるときがある。

風邪

 昨日から熱が出ていて、腹が痛い。腹が痛いのは、久しぶりのことだ。何年ぶりのことだろうか。

 何年ぶりのことだろうか。ほとんど心当たりがない。わたしは、胃が丈夫なほうだ。それに、わたしの場合、運動などもしていた。そして、食事にも気をつけていた。

 だというのに、腹が痛くなった。

 腹痛は、まだ出ている。しかも、それが、ズキズキという感じではない。ズキズキというよりは、ぷくりと膨らんだ感じなのだ。わたしは、だからガスが腸内に溜まっているのを感じる。それを出し切りたいと思い、腹を腕を使って凹ますけれどもまったく効果がない。腹は、ぐっと凹む。それは、なにも、そこには余分なことがないといっているはず。なのだが、しかし、実際のところ腹は、非常に、膨らんだ感じがする。

 わたしは、今度旅行へと行くから、そんなにもこの状態を続ける訳にはいかない。この状態が続くなら旅行も難しい。しかも、旅行は海外であるから、非常にこまる。お金というものもすでに払いチケットもあるから、わたしは、金を失う危機にあるということだ。

 大きな音がした。どこでそんな音がしたのだろうか。わたしは、信じがたい。その音がしたのが。というのも、わたしの家でそんなメタリックな音がするのは信じがたいからだ。

 といっても、どのような人々にそれは伝わるか。うちは、金物などはきちんと気をつけて、落ちないようにしている。みな、その音が嫌なのだ。

 その音が嫌。その音が嫌。たしかに、わたしはそう思う。そう思わなくてはならないわ。

 とかなんとかいいました。いうことはつねに、わたしたちを興奮させました。詩人たちは泣き叫びました

無意識と彼女の同等性

 昨日というかそれは明日でもいいことなの、昨日あった。端的にいって…そういう感情が湧いたのだ。

 感情?わたしはそれを記憶したかった。しかしなかなかできるものでもない。わたしは思い出したいがそれができない。

 たとえばなんであろう。わたしは、そのときグレープフルーツジュースを飲んでいた。グレープフルーツジュースは、わたしは好きじゃない。でも、喫茶店ではなにかを頼まなくちゃいけない。

「ケーキなんかどう?チョコレート好きじゃん?」

とわたしの彼女はいっていた。彼女は、服を着ていた。いや、やけに着ていたのだ。鬱陶しいくらい。わたしは、それを剥ぎ取る作業を手伝った。実際、汗がびしょびしょ、それくらいすごいのだ。

「いいけど。アップルジュースないじゃん。ここ。グレープフルーツにするわ」

といった。彼女は、チーズケーキ。わたしはチョコレートケーキ。

 それでまあ、よいのだろう。わたしは、ある種、そのとき、典型的な彼女と彼氏だったのだろう…。ということは?凋落が近い?のだろうか。

 わたしは、その感情を、持った。そして、とめどない不安だった。歓喜のなかでの不安。つまり、もうこれ以上、のぼりじょうしにはなれないという不安が、わたしを狂わせた、なんてことはなく、しっかし帰ってもそればかり考えているのだ。

 

 わたしは彼女にラインした。

「なにかね、ハイデガー的な意味で、対象なき意味で、不安です」

と。その彼女というのは、男になることだってできる。それは本当なのだ。女たちは、簡単に、わたしたちになることができる。

「はあ、そうなのね。そうなのね。まあじゃあ。あなた、わたしに、なにか話しなさいよ。嘘でもいいから。それを理由にしましょうよ」

「はい。わたしは思います。あなたと別れるのが不安です」

「じゃあそれを理由にしなさいよ。そうすりゃいいじゃない。というか、こんな、無意識みたいな仕事をわたしに押し付けないで?」

「でもあなたは彼女だろうおお!」

「そうだよおおお!

つげ義春じゃない

 昨日、ふろに入ったが、入らなかったと思うことはできた。なんならそう信じれた。

 第一記憶が曖昧だ。だからできる。そして風邪を。していたから、わたしは、できた、風邪の日は風呂に入らないことが多い。

 しかしそれは一般論だ。だから、わたしは風邪の日だってばんばんに風呂に入るのだがな。わたしは病気です。といわない。みんな知る。見ればわかる。みればわからないやつもある。そういうのは大変だ。でも、病気とは?健康的なものからの逸脱。しかし、健康とはなにか?生物的に生きれることか、社会的に有用であることか。なにの判断からだろうか。あと障害と病気は違うのか。一時的かどうかなのか。しかし、わたしは、わからない。

 思うのは、わたしたちのまわりにも、そういう傷ついた人はいることだ。隠れている。しかし、いるのだろう。しかし、隠れているからそれとはわからない。わたしは

「あなた、疲れてるわ」といわれたとき

「いえ疲れてませんよ」

といっちゃうほうだ。そして後悔するのだ。

「いえばよかった!」

と。そのとき、ある時刻がきた。というかそれはつねにだ。つねにくるのだ。時刻がこない、あるときらないのだ。

 その時刻は、なにか、意味があるのか?わたしには信じれない。しかし、ある時刻が、まさに、刻印されたのだ、脳だろうか。そのときのわたしの脳はじんじんとしていた。

 時間。時間とはなんだろうか?わたしにはよくよくわからない。しかし、なんというか、わたしも病人なのか、うまく時間を組み立てられない。

 時間はわからない。時間は、たとえば小説のようだ。というよりも、わたしの思う小説がそうだ。

 カッとなる。それは秒針が。そしてその時間を、わたしはわたしを中心に組織化できない。わたしは、あらゆることにおいてここにいるのだろうか?わたしが見た、わたしが聞いた、わたしに来た、わたしに殴られた。みんなわたしを中心に因果の道にしたいらしい。

 しかし、わたしは、よく思うに、ときたまわたしであるだけで、けっこうお留守で。なにしろ、よくよくみれば、わたしはわたしのことをうまく記憶できないから、なかなか時間を組み立てれない。

 始まりからといわれても、思い出せない。ぷかぷかと浮かぶ、これが連想というのだろう。しかし、そうでなくては、わざわざ思い出しはしないのだ…。

 ああつまらない、とわたしは、つげ義春の人物が一言くらいいっていそうで、しかし多分いっていないことに思いあたった

思い入れのある、ことの楽しくなさ

 昨日から、といっても、別に昨日からしてるようなことは特にない。久々にブログを書くだけだ。

 なにを書こうか、と思う。そんなに、書きたいことが明瞭に決まってはいない。なにかをしたい、のではなく、ただしたい、という状況だ。

「なにか」を書きたい、のではなく、「書きたい」という状況だ。なにかを、書くことが好きなら、そのなにかのための手段として、書くことはあるだろう。

 その一方で、ただ「書きたい」というときは、「書く」ことそのものが、目的になっている。

 なにかを、書くことは、そのなにかは、こういうとき、些細な問題なのかもしれない。

 

 なにかをしたい、のではなく、したい。それは、ちょっと、すごい感情だ。ただ、なにをできたかではなく、ただそれをしているだけで、楽しいというか欲望が喚起されるということだ。

 それは、結果というものに、左右されにくいところがある。いま、こうやってるブログも、ただとにかく書きたくて、そして書くことが楽しい。

 逆に自分の場合、「これ」を語りたい、したい、書きたい、というとき、その目的がとても強いとき、ものごとはやっていて楽しくないことが多い。

 僕は、詩やある種の哲学より、小説のほうが好きだ。けど、小説の場合、ただ書いていて楽しいとはなれない。どうしても書いている途中に、

「これでいいのか?」ということを、検閲してしまう。

 多分、わたしのなかに、イデアがあって、思い込みが強すぎて、そのせいで、とても小説を書くときは窮屈なのだろう。わたしは、だから、小説はうまく書けないし、あと他人との関係も、まだ楽しめない。そう、あまり楽しくないんだよな。

 だから、困る。

 なにか、このイデアはなんなのだろう?好きなことほどうまくいかなくて、嫌になる。多分、好きなのは、ある条件つきなのだろう。君は詩なのだろう?詩ならなんでも愛せる、これはけっこうな広い条件だ。

 でも、小説かい?でもぼくはとてもいい小説しか、しかもわたしの夢の小説しか、好まないのだよ。という感じだ。本質的には、わたしの外部に、対象があるかどうかかもしれない。

 わたしのなかに、すでに理想がある。そしてそれを外化する。しかしそれは、書く意味がない。その夢を楽しめばいいのだから。

 詩やある種のスピノザアルチュセールの哲学は、わたしの内部にはない。わたしは、なんの思想もない。だから、実際に言葉として、する意味がある。

 わたしは、多分コミュニケーションには興味がなくて、実際に言葉というマテリアルを使って作るのが楽しいのだと思う。

 その、作られるものは、わたしの心のイデアがないから、実際に作るまで、存在しないものだ。その意味で、作られるものはとてもわたしの興味をそそる。わたしのものではなくて、他人が作ったものみたいで、べたつかない。

 端的にいって、自己表現ではない。

 だから、わたしはそれがいいのかもしれない。

 ただ「する」とは、理想に支配されないままに、理想に支配されることなく、なにかやってくるものを全面的に肯定する行為だと言える。

 なにかをしたい、というものは条件だから、未知なるものでは、ないようなのだ。

 

 あんまりまだわからないけど、わたしには、偶然を愛し楽しむことが、好きになることができないのか。

 思い入れのあることは、難しい。

昨日に続き自己のことなどあとアルチュセールについて少し、わずか

 なにかどうでもいいこと、のほうができる。いまもだ。といってもかなり主観的。だけど書けることは書けるのである、というか、こんなことを分析するのが一番やばい。テクノクラートになっちゃう。うまくいく方法を分析してうまくいくように、わざとものごとをどうでもよくする…なんてアホらしすぎる。今日はライトノベル推理小説がどうでもよくなり楽しめるようになった。あとマルドロールの歌は読んでてびりびりくる。あとダンスも以外と楽しい。すぐ振り付けも覚えれた。何を書くか、何を書くかと思わなくても書ける。かなり緩い。倫理がない。なぜだろう。好きなことができない、好きなことなのに楽しくない、というずれ。むしろ転倒か。楽しくないから好きになっているのか。おお怖いな自己分析。虐待された過去など捏造しそうになったぞ。

 高橋源一郎があの翻訳家の柴田さんと話してて、考えなくても書けるのがいいみたいなのをいってた。あの書名を見つけるのは面倒くさいけど、あれ、つまり小説の読み方、書き方、翻訳の仕方、みたいな本でいっていた。

 まあそれは一理ある。しかし、罰みたいだ。好きなことほどできないのは。人間関係も好きなことのほうができないというか、嫌われたくない、というか、なんか捕らえられてるんだよな。セカイ系的になってて、この愛とか好きな感情とかが肯定されないと俺は生きる意味がねえ!みたいな。だから攻めっけがなくなって適当さがなくなる。俺が仲良くなるのも好きじゃないやつとだ。そういえばMのことを思い出す。最初は、というかいまも好き、じゃないけどいて楽しい。好きだから楽しい、楽しいから好き、という充足理由律、いや必要十分条件か、があればいいんだけどな。わたしにおいてはそれが破綻している。

 つまり、どういうことだ?多分、好きじゃないほうがいいというか、わたしがそいつに好かれようがどうでもいい、みたいな環境になれればいいんだよな。いまもこのブログなんか誰も見てないから勝手に書いてるけど勝手にやってるけど、まあ、どうでもいいんだよな、成功するかどうかなんて。つまり『余裕』というやつか。わたしはなにが不足してるんだろう?多分好きなやつもこともそんなの持ってないはずのレアメタル的なものを持ってると思い、それを失いたくないから適当にできないんだろうな。くわばらくわばら。自己?か。自己を見てもらうというか。自己がそこにあるべきなのだ。この前の、というか昨日書いたそれとも繋がるけど、たしかに俺には自己がない、安定した自我がない…うう書いていて頭が痛くなってくる、なんて最悪なのだ…。

 まさに、あなたはわたしの自己を持ってるでしょう?いやそんなものはないんだが。たとえ美人なアイドルの美人のなかのカリスマみたいなのに愛されてもそこに自己はない。俺は自己、これが自己だということに飢えている。でも同時にそんなの鬱陶しい…。矛盾である。俺の一部をあなたが奪っかのような…。ドラゴンボールでかき集めるみたいな…。いやそんな関係いやだよな。適度に無関係で、千葉雅也っぽいが、適度につながる、ベタベタのなさ?いやこんなの書いたって別に俺も誰も本気にしないが…。俺はなにをしたいんだろう?まあ別にそんなの本当に快楽的にどうでもいいんだけど…。

 あ、アルチュセール最近読むけどまあおもしれえ。なんか論考でも書くか。書いたらアップしよう。うーん、他者。

自己と承認

 眠いなあ。

 眠いなあ。

 と思うし、疲れてるし、けれどやることはまあまああるのでまあやっていこうかなと思う。よく思うのは思い入れのないほうができるということ。これは自己分析が不向きな自分にはよくわからない難問だ。

 自己分析をしてみてもわかるかどうか。

 多分身体的精神的要因が様々に、あるんだろうなと思う。いまみたいにブログだと自由に書けるけどTwitterはぜんぜんうまくかけないし、いやかけてるのかわかんないけど、でもかけない。よく、小説も、とくに長編小説を読みたいし書きたいけどできなくて涙がでてくる。

 自分が無理してる、という感じ。距離を置くということか。多分自分の理想が高いから楽しめないのか。よくわからないが、しかし、この問題は悲しいけれど代用品で済ますしかないのか。

 このときは、まったく他人の目など気にはならないんだけどな。なぜああいうときは他人の目が気になるんだろう。人と話すときも他人の目が気になる。他人にどう思われるかが。どうでもいいことは、好き勝手できる。多分それはもともと他人の評価を気にしてないからだろう。どっちでもいいのだ、褒められようがけなされようが…。

 しかし、しかし、しかし、どうしたものか。他人の目とはなんなのか、とかいいながらもう自己分析をしてるけれど…。なぜ他人の目が気になるんだろう。もっと好き勝手にしたいのに…。孤独を恐れてるのか。あるいは過去のトラウマなど。なにか自分を見てくれという感じが強すぎるのか…。どうしたものかな…。そうだな、自己を見てもらって安定させたいという欲望があるのだろうな。他者に承認されなくてはならない。そしてその自己は、多分わたしにとって理想なのだろう。その理想の自己は他者に承認されなくては、安定化しないのだろう。そんなことじゃだめなんだけどな。

 自己というものがよくわからない…。