tsutsugouのブログ

研究者見習いの日記

旅をしたこと風景も

 風景、と書いたが、なにか思い出せる風景があるわけではなく。

 北海道の雪道はよかった、と思う。通行止めだった。それは、もう、雪が3メールくらい積もっていたからだ。そんなところを進めない。自然のせいで通行止めだった。工事とかではなく。恐ろしいことだ、と思う。

 そのときの一緒にいったやつとは、疎遠だ。たまにあうぐらいだが。旅は2週間あった。喧嘩した。話す内容がなくなる。俺は口下手だ。だからいうこともなかった。その運転手で一番年上のやつは、芸大を出ていた。いまは関西で働いている。

 あとは、日本海はよかった。俺がいった、金沢で。そこまで滋賀から歩いた。若気の変なパワーだ。日本海はなかなか見えなかった。旅をしてから10日で見えた。とても心地よかった。しょんべんした。海へ向かって。俺は叫んだ。しかし、なにをしたか、俺はまたをかき、それを女に見られた。女は笑わずぷいと逃げた。おれはその晩マスをかいた。

 一緒にいったやつとは喧嘩した。俺はコカコーラが嫌いだ。なのにそいつはコカコーラを買ってきた。「嫌いなんだよ、おれは」というと、そいつは顔を真っ赤にした。

「きらいも何も、これしか俺はかえなかった。爽健美茶なんか、買えなかった。もうコカコーラだ。それしかかえんだろ」といった。そいつの声は、夜の公園のなかにあった。でも、公園は広すぎた。俺たちは小さかった。俺はコカコーラをのんだ。こぼした。ライト。そこに赤いのが。おれは、しかたなかった。地面に手を付けて、なめた。それは、うまかった。でも次の日かったコカコーラはうまくもなんともねえ。

 話がずれた。風景はいい。というが、おれは、具体的な風景ではなく、風景一般について語りたがる。抽象的なベクトルへと!

 死ぬのがよい。と思う。

 なにが。わかんねえよ。わかるなら死なねえよ。そんなことをいったやつがいるかは知らねえが、いたんだと思う。風景には死がある。嘘だと思う。しかし、風景は、俺より大きい。俺を包む。ミニチュアを見て、風景だとはいいたくない。風景のなか、おれは、それを受容するのに精一杯だ。おれは死んでる。自由がない。そして、その風景は届かない。やっぱり抽象的だ。

 旅を始めたのも、それがきっかけだ。風景を手にしたい。虹の根本にいきたい、それと一緒だ。虹の根本には、市ができるらしい。おれはゴールまでいけない。途中の東北でおわりだ。そこになにができるのか。だいたい俺が歩いたことをしってるやつなんてアフィウくらいしかいない。だからってなんだ。

 そのときの風景。道路ばっかりだ。この道路、なんてない。一緒だよ。

倫理と手がないこと

 手がある。という人。もちろん、多くの人には手がある。わたしにもある。ない人もでも少なからずいる。

 それは、不具とか昔はいわれた。でも、それは、手があることを人間のNormalな状態としたからだ。あるnormalがあって、それなら外れているように見えるし思えるから、不具とか障害といわれる。

 ノーマル、や正常、という概念はなんだろう。なぜ、そんなものがあるんだろう。わたしたちは、スタンダードを決めてしまう。決めると安心してしまう。本質とかいうのも、そうだ。手があることは、人間の本質、というように。

 でも、よくいわれる、身体的にもセイシンテキにも不具のない、素晴らしく理想的な標準的人間、というのは、いない。多分めったにいない。そんな、人はいない。

 みな、なにかしら、体脂肪が多かったり、癇癪持ちだったりする。そして、しばしば、それは、かなり標準から外れている。

 だから、むしろ、わたしが思うのは、こうだ。標準的だからnormalだから、わたしたちは不具合に見えないのではなく、不具なのに、不具だと見させない作用があるのではないか、と。

 

 手がない人だって、他の要素は健康(これも疑問符をつけないとならない概念だけれど)であって、もしかしたら健康的でnormalだとされる人より、手以外の要素は勝っているかもしれない。というか、そういうことは、きっとぜんぜんありうるだろう。

 みな、なにかしら不具はある。身体的な病気や、精神的な不調など。normalな自己というのは、理想なのに、それがあたかも現実化されているように見える、というかそのようなフィクションが、力を持っている。つまりnormalとは、あまりにも理想的なのかもしれないのに、わたしたちの横にはそんなnormalがたいてい、いる、というふうにいわれている、と思う。

 俺はnormalではない。しかし、一見したところ、normalに見える。

 そんなことをいうとき、わたしたちは、正常とかの概念をいやらしく思う。正常とは、明らかに、不思議だし、なぜわたしたちは、正常であることに、こだわるのだろうか。

 正常であることにこだわるから、目立ちやすい異常なものを強調することで、わたしたちは自分の異常性を隠し、わたしたちは自分が正常だと錯覚する。そしてその錯覚を本当だと思う。正常さは、しかし、なぜそこまで追い求められるか。わたしたちは、異常を異常として強調することで、偶然的に自己の異常性が発露されない。ある世界では、わたしのように、体毛の濃いものが、差別されていても不思議ではない。容姿がよいものが差別されていても、不思議ではない。なにが、差別されるかは、かなりアトランダムなものに感じる。

 まあ、ぜんぜん論理的には程遠い。しかし、なぜ論理的に書くことが、唯一の正解とされるのか。それがわからない。文章とは、そのようなものか。

 

 正常であることは、わたしたちを支配する。規範であること。倫理ではある。恐ろしい倫理だ。正常とは違う形での、倫理を求めたい。それがいま書けることの最後のことだ。まだいける。正常でなくても、倫理的であるような倫理はないものか。倫理もnormalや正常は、分かちがたく繋がっているのか。よくわからない。

なんか雑多なメモ

 風呂屋に最近行っていない、銭湯のほう。

 銭湯は大都市にはけっこうある。田舎だとそんなにない。友達と一時期はまっていたけれど最近はそうでもない。

 なんか返すのいつでもいいといって本を渡したのに、それを催促してしまった。最悪なことである。よくない。

 銭湯は、同性愛の人もいる。それはよい。肯定することだ。でも、性行為をしてくるのはやめてほしい。そんなに、ちんこをすりつけて来ないでほしい。

 小説をどう書くか?小説にふらっといくのではなく、今までのことを積み上げた上で、小説を、つまり詩や哲学を引き連れた上で、いかなくてはならないと思う。がらっと小説が書けるわけじゃない。でもまあ、まだ塩漬けにしておく。

 澁澤龍彦はまあまあ面白い。しかし、小説も気軽に書ければいいが…。

海についてのこととか

 少し眠い。昨日からずっと寝ていた。しかし、まだ眠い。友人と会うから、そろそろ電車に乗らないと。

 図書館の本も返さなくては。面倒くさい。わたしは、本を借りるときはうきうきするけど、借りるときはそうではない。なぜか、考えてみるが、わからない。そして、そこまで考えたくはない。

 本当は今日は論文を書き進める予定だった。しかし、それは、できなさそうだ。マルクス主義についての論文なのだが。マルクス主義の論争について。

 マルクス主義は一貫性のある流れではない。マルクスのフォロワーたちだが、彼らはそれぞれ異なったマルクスの姿を思い描いている。だから、それぞれの考えるマルクス主義は異なっている。だから、マルクス主義者たちをマッピングするには、地道な思想の比較が欠かせない。マルクス主義がある本質というよりも、家族的類似性に、多分支えられているから。

 わたしはそろそろ家をでなくては。そして、電車に乗らなくては。すこし遠い街で友人たちにあう。彼らは小学校からの付き合いだ。しかし、最近は疎遠になっていた。彼らのうちの一人はいまとても信じがたいことに、モデルをしているらしい。そんなことはなんだかやはり信じがたい。それを教えてくれた幼馴染は、今日はこない。

 夢を見て、大きな街へ行く。そうしているのは、素晴らしいことだ。自分には、そんなことは、うまくできない。僕にできるのは、眠ることくらいだ。しかし、それだっていつもできるわけではない。いやもっと真面目にいうなら、哲学したり、思考したりするくらいか。わたしは、なんだかそれが、煩わしく感じる。なんでも、哲学から見てしまう。別に僕は哲学は好きではないのに、そんなことになってしまう。わたしは、もっと詩や小説なんかを書いて過ごしたいわけなのだが。そういうことを考えるが、しかし、結論としてはよくわからない。つらつらと書くのがよいか。

 哲学のことだけしたくない、という感じがある。哲学のことは、たしかに、人にとって益を与えられる、わたしのやることだ。変な文法だ。けれど、もっとわたしは日常に光をあてたい。哲学はある程度の能力があれば、それっぽいことは書ける。そんなに大したことではないし、哲学自体が虚業だと思うから、わたしはそこまでしたいとは思わない。海を見ていたことをふといま思い出した。だからなんだとはなるが。精神分析をしたいわけではない。ただこのときの印象がやはり、はっとなる。そういうことを大事にしたい。わたしの哲学への違和感。それはなんなのだろうか。よくわかるわけではないが。しかし、やはり、哲学だけをしたいわけではない。

 周囲の人間の影響もある。しかし、自己分析をわたしはしたくない。もっとくだらなきことを。と思う。わたしは、海へ行きたいとはそこまで思わない。海は塩辛く、目が痛くなる。なんともいえず、不愉快である。しかし、そうはいうものの、行こうとなると、行きたくなるものなのだろうとも思う。

 今年は海へ行かなかった。しかし、機会があれば、沖縄にでもいって、冬でも行こうかと思う。海へ。海へといって、泳げなくてもよいから、ばしゃばしゃと水にでもつかりたい。誰かと行くか。それもよい。一人でもよいのだろうから。どちらでも大した違いはないのだろう。

アルチュセールとアイリッシュパブに行ったこと

 今日はけっこう疲れた。詩を書くけど、個人的には集中力がいる。

 詩はけっこう、コツとしては、こうわーっとすごいスピードというか、短距離走で書く感じだなと思う。哲学とかも集中力がいる。でも、散文は、けっこうゆっくりやる感じがいいのかなと思う。いつも集中してやるのは、大変だなと。だからコツコツやろうかなと思う。こういうことを書くのは。

 今日はアルチュセールの『哲学においてマルクス主義者であること』を翻訳で読んでる。難しいなと思う。読みにくさはないけれど。けれど好きなテクストだなと思う。自分の関心として、哲学論がある。哲学を研究してるけど、哲学に乗り切れるわけではなくて、やっぱり哲学って、時間とか神とか語るけど、そんなに学問っていう客観性はないな、とか、アルチュセールは哲学を唯物論と観念論のシーソーゲームで、まあ、そんなに、決定的に新しいことはいわれてないとかいう。

 まだわかんないところもあるが、科学はなんらかの認識を生産するけれど、つまりいいかえれば、世界についてのなんらかの仮説的ではあるけれど知を生み出す、でも、哲学はそうではない、という。哲学はテーゼをたてる、しかもそれは本質的に証明を必要としない、という。アルチュセールは。だから、哲学が時間や空間や世界についての事象について、なにか、知を生み出すわけではないという。

 これはけっこう、体感としては共感できる。それが正しいかはともかく、まだわかんないけれど、大学で先生とかが、時間はこういえる!って思弁的に思考することに違和感を感じる身としては共感できる。けれど、それが正しいかは、その共感は出発点ではあるけれど、よく検討しないといけない。哲学を、だから、ベタに、真理を探求するぜ!という感じには違和感がある。

 そういうのもあってアルチュセールはいい。まあ科学がこんなに発達したら、正直哲学にできることはないなと思う。じゃあなぜそんな非生産的なことをするのか?といわれると、まあ生産性はないと思う。それよりも、カントが、人間には超越的に知りうることを思考してしまうくせがあるという。それがまあわかることで、人間にはそういう生理的な癖があるのだと思う。個人的には、そういう生理的な癖がなんであるんだろう?というのが気になっている。アルチュセールも、これは僕の引き寄せがあるけれど、そういう哲学をメタで見て、なんで哲学みたいなアホに見えることをするのかが見たいのだと思う。

 でも、哲学を見るのは大変だ。読んだり思考しないと。デリダとかはすごいなと思う。ただの思弁とはいえるけれど、思考の力はすごい。ただ天才的な名人芸すぎて、芸術みたいに、一代限りの作品だなと思う。もうそれは、芸術とか宗教のフィールドで、頑張って超越を語ればいいのでは?と思ったりする。ただ差延論文とか読むと、まあ、たしかに差延の概念とかは、哲学でしか語れない、つまり論理的に論理外のことを語ることをしてるから、すごいなと思う。でも検証とかできるのか?とは思う。読むと納得するけれど、言語の論理性を超えて、つまり言語というメディウムにむっちゃ馬力をかけて、してるけれど、それはやはり言語のその運動を見るしかなくて、言語以外ではそこへ到達し検証する道もないのだと思う。

 でも世界が論理で語られるように、分節化されてるのか?とはずっと思ってて、論理的に語れるからといって、世界がそうなってるかはいえなくないなと疑問にいつも思う。それだったら科学みたいに、まあ雑だけれど、言語のなかでだけで、言語と世界はある程度相関的というか、言語でいることは世界についても正しい知識を生み出す、という作業仮説でやるほうがいい。デリダとかレヴィナスは、言語で語れない、他者とか無限とか差延とかを、語ろうとするからすごいとは思いつつ、そういう思考は自分にはできないなとか思う。

 あとこれは哲学とかと関係ないけど、昨日いったアイリッシュパブはよかった。フィッシュアンドチップスがでかくてうまかった。まじで魚がでかかった。すごくうまかった。アホっぽい、ことだけど、まあ書いておく。小説も、ゆるゆると書こうかな。

鉄の音がすることはない、特にはない、しかしそれはその穴の中にあるようだ。

 昨日から寝てる人がいる、わたしの横で、その横でも寝てる人がいる、ぐるぐる回転してる、わたしの頭の横を回転してる。寝相が悪いということ。けれど、起きてみるとわたしの方が寝相が悪いといわれる、憤慨する、水を飲む、そんなに大したことじゃない、そういうのだが、わたしもそう思う、ころころと変わっている、湖はとても広い。

 キャンプをしてる、寒いのだ、という。それを聞くのはそいつだ。でも木なども聞くかも、もしかしたら空も、と思う。それは大層スピリチュアルな態度である。わたしは、そんなことはしたくないと感じる。しかし、歯磨きをし、空を見るとそうだなと思う、かなり簡単に了解する。それくらい自然には癖がある、味わうとよからぬことを思うのだ、とわたしは日記に書いたが、そんなに大したことでもないように思える。

 空は明るかった、焼けているみたいだ、空が焼けると煙は出るのか、この焚き火みたいに。もしかしたら空は白いのは、雲は、焚き火かもしれぬ、と思うのは馬鹿げている、しかしする、そういう思考の遊びをする。そういう思考の遊びとは?今書いたとおりだが、腑に落ちない、なんとも言い難い、いいにくい。そういう、連想的妄想的ななにかが、動きだすということは、いえた。わたしは見ている、その空を。ひゅんひゅんと鳥たちが飛んでいる、その事実を記憶する。認識できたから記憶できるはずだ、記憶とはなにか、それはイメージの再現だ、わたしは認識しそれを脳内に起こしているのだから、できるだろう。記憶とは再現なのだ、と、そのようね声、自分の声が頭で動き出す。そのようなことが、あるのだろう。

 このキャンプは、失敗だったとわたしは思う。非常に不愉快である、しかし、それも空に比べることができない、空はあるようだ、こっちはある、それであるものとあるものがぶつかりあう、そうしていても空はしんとしている、一ミリも拗られた音を出さない。そこでは静止がすべてなのである、とわたしはいう。わたしはいう、わたしは、それなのだから、と。しかし、そのように思考しうることは、あるのか。わたしには、理解し難い。わたしは、理解できない、どうしても、その思考に、譲り渡すことができないもの、そのようなもの、それがある。カレーライス、朝はこれだ。隣で食う音、それはわたしにとって、祝福か幸いかあるいは悪夢か、しかし、そうしたもので形容できるほど、わたしというものの周囲をまわるものはやわではない、あるいはこうもいえる、それは、明らかに、夢であると、わたしにとって言葉にならない、ある夢であると、こんなことをいうなんて恥ずかしい、しかし、夢としかいいようのないもの、なのであるから、それを他の言葉で無理に覆うよりは、こちらの、穴だらけの言葉がよいのだと、わたしは思う。そのとき、津波が来た、というヴィジョンがある。ヴィジョンには、なにをいうべきか、わからぬところがある、だからか、わたしたちは、その穴ぼこにいる。それに入る。そう想像する、それも、ヴィジョンだ。

 

デリダとか、澁澤龍彦

 デリダは前から読んでみたい哲学者ではあった。昨日から今朝にかけて、哲学の余白の、人間の終わり、みたいなタイトル(うろ覚え)なんかを読んではいた。

 といっても3、4ページだけ。まあ前よりはわかる。しかし、アルチュセールドゥルーズに比べれば難しい。自分の感触だが、どうもデリダなんかは、一つ一つの要素が強く絡み合っていて抜き出したり思考することが難しい。全体的に把握しなくてはならない。もちろんこれは感想で、わたしの資質も関係するだろう。ドゥルーズアルチュセールも、全体的に把握しなくてはならない。それらの構造がバラバラだといってるわけではない。

 そこまで、構造まで判断できるほど、わたしは読み込んでいない。しかし、デリダは、少しづつ読めるようになれると良い。こっちはまだいい。しかしレヴィナスになるとまじでお手上げである。旧訳の全体性と無限を読んでいるが、ほとんどわからない。彼が、無限とかの超越への志向をあらわにし、しかもそれを思考しようなどというほぼ不可能に見えることをしているので、すげえなあ、とまず端的に思うが、しかし、それが成功してるのかどうかはわからない。大変すごいが、死ぬまでにすこしわかれば御の字といったところか。

 やはり、一つ一つ地道にやるしかないだろう。地道とは遠回りも含む。他人の評価なしでもできることを進めていくべきだろう。詩や哲学は、わたしにとってはかなり私的で秘密のことだ。あんまり人前でどうどうとやるもんじゃない。これは極私的なメモなので読めるかはわからない。

 あと、ロートレアモン全集も読めれば。澁澤龍彦のちくまの短編全集は何年かぶりに読めるようになった。