tsutsugouのブログ

研究者見習いの日記

鉄の音がすることはない、特にはない、しかしそれはその穴の中にあるようだ。

 昨日から寝てる人がいる、わたしの横で、その横でも寝てる人がいる、ぐるぐる回転してる、わたしの頭の横を回転してる。寝相が悪いということ。けれど、起きてみるとわたしの方が寝相が悪いといわれる、憤慨する、水を飲む、そんなに大したことじゃない、そういうのだが、わたしもそう思う、ころころと変わっている、湖はとても広い。

 キャンプをしてる、寒いのだ、という。それを聞くのはそいつだ。でも木なども聞くかも、もしかしたら空も、と思う。それは大層スピリチュアルな態度である。わたしは、そんなことはしたくないと感じる。しかし、歯磨きをし、空を見るとそうだなと思う、かなり簡単に了解する。それくらい自然には癖がある、味わうとよからぬことを思うのだ、とわたしは日記に書いたが、そんなに大したことでもないように思える。

 空は明るかった、焼けているみたいだ、空が焼けると煙は出るのか、この焚き火みたいに。もしかしたら空は白いのは、雲は、焚き火かもしれぬ、と思うのは馬鹿げている、しかしする、そういう思考の遊びをする。そういう思考の遊びとは?今書いたとおりだが、腑に落ちない、なんとも言い難い、いいにくい。そういう、連想的妄想的ななにかが、動きだすということは、いえた。わたしは見ている、その空を。ひゅんひゅんと鳥たちが飛んでいる、その事実を記憶する。認識できたから記憶できるはずだ、記憶とはなにか、それはイメージの再現だ、わたしは認識しそれを脳内に起こしているのだから、できるだろう。記憶とは再現なのだ、と、そのようね声、自分の声が頭で動き出す。そのようなことが、あるのだろう。

 このキャンプは、失敗だったとわたしは思う。非常に不愉快である、しかし、それも空に比べることができない、空はあるようだ、こっちはある、それであるものとあるものがぶつかりあう、そうしていても空はしんとしている、一ミリも拗られた音を出さない。そこでは静止がすべてなのである、とわたしはいう。わたしはいう、わたしは、それなのだから、と。しかし、そのように思考しうることは、あるのか。わたしには、理解し難い。わたしは、理解できない、どうしても、その思考に、譲り渡すことができないもの、そのようなもの、それがある。カレーライス、朝はこれだ。隣で食う音、それはわたしにとって、祝福か幸いかあるいは悪夢か、しかし、そうしたもので形容できるほど、わたしというものの周囲をまわるものはやわではない、あるいはこうもいえる、それは、明らかに、夢であると、わたしにとって言葉にならない、ある夢であると、こんなことをいうなんて恥ずかしい、しかし、夢としかいいようのないもの、なのであるから、それを他の言葉で無理に覆うよりは、こちらの、穴だらけの言葉がよいのだと、わたしは思う。そのとき、津波が来た、というヴィジョンがある。ヴィジョンには、なにをいうべきか、わからぬところがある、だからか、わたしたちは、その穴ぼこにいる。それに入る。そう想像する、それも、ヴィジョンだ。