tsutsugouのブログ

研究者見習いの日記

思い入れのある、ことの楽しくなさ

 昨日から、といっても、別に昨日からしてるようなことは特にない。久々にブログを書くだけだ。

 なにを書こうか、と思う。そんなに、書きたいことが明瞭に決まってはいない。なにかをしたい、のではなく、ただしたい、という状況だ。

「なにか」を書きたい、のではなく、「書きたい」という状況だ。なにかを、書くことが好きなら、そのなにかのための手段として、書くことはあるだろう。

 その一方で、ただ「書きたい」というときは、「書く」ことそのものが、目的になっている。

 なにかを、書くことは、そのなにかは、こういうとき、些細な問題なのかもしれない。

 

 なにかをしたい、のではなく、したい。それは、ちょっと、すごい感情だ。ただ、なにをできたかではなく、ただそれをしているだけで、楽しいというか欲望が喚起されるということだ。

 それは、結果というものに、左右されにくいところがある。いま、こうやってるブログも、ただとにかく書きたくて、そして書くことが楽しい。

 逆に自分の場合、「これ」を語りたい、したい、書きたい、というとき、その目的がとても強いとき、ものごとはやっていて楽しくないことが多い。

 僕は、詩やある種の哲学より、小説のほうが好きだ。けど、小説の場合、ただ書いていて楽しいとはなれない。どうしても書いている途中に、

「これでいいのか?」ということを、検閲してしまう。

 多分、わたしのなかに、イデアがあって、思い込みが強すぎて、そのせいで、とても小説を書くときは窮屈なのだろう。わたしは、だから、小説はうまく書けないし、あと他人との関係も、まだ楽しめない。そう、あまり楽しくないんだよな。

 だから、困る。

 なにか、このイデアはなんなのだろう?好きなことほどうまくいかなくて、嫌になる。多分、好きなのは、ある条件つきなのだろう。君は詩なのだろう?詩ならなんでも愛せる、これはけっこうな広い条件だ。

 でも、小説かい?でもぼくはとてもいい小説しか、しかもわたしの夢の小説しか、好まないのだよ。という感じだ。本質的には、わたしの外部に、対象があるかどうかかもしれない。

 わたしのなかに、すでに理想がある。そしてそれを外化する。しかしそれは、書く意味がない。その夢を楽しめばいいのだから。

 詩やある種のスピノザアルチュセールの哲学は、わたしの内部にはない。わたしは、なんの思想もない。だから、実際に言葉として、する意味がある。

 わたしは、多分コミュニケーションには興味がなくて、実際に言葉というマテリアルを使って作るのが楽しいのだと思う。

 その、作られるものは、わたしの心のイデアがないから、実際に作るまで、存在しないものだ。その意味で、作られるものはとてもわたしの興味をそそる。わたしのものではなくて、他人が作ったものみたいで、べたつかない。

 端的にいって、自己表現ではない。

 だから、わたしはそれがいいのかもしれない。

 ただ「する」とは、理想に支配されないままに、理想に支配されることなく、なにかやってくるものを全面的に肯定する行為だと言える。

 なにかをしたい、というものは条件だから、未知なるものでは、ないようなのだ。

 

 あんまりまだわからないけど、わたしには、偶然を愛し楽しむことが、好きになることができないのか。

 思い入れのあることは、難しい。