tsutsugouのブログ

研究者見習いの日記

倫理と手がないこと

 手がある。という人。もちろん、多くの人には手がある。わたしにもある。ない人もでも少なからずいる。

 それは、不具とか昔はいわれた。でも、それは、手があることを人間のNormalな状態としたからだ。あるnormalがあって、それなら外れているように見えるし思えるから、不具とか障害といわれる。

 ノーマル、や正常、という概念はなんだろう。なぜ、そんなものがあるんだろう。わたしたちは、スタンダードを決めてしまう。決めると安心してしまう。本質とかいうのも、そうだ。手があることは、人間の本質、というように。

 でも、よくいわれる、身体的にもセイシンテキにも不具のない、素晴らしく理想的な標準的人間、というのは、いない。多分めったにいない。そんな、人はいない。

 みな、なにかしら、体脂肪が多かったり、癇癪持ちだったりする。そして、しばしば、それは、かなり標準から外れている。

 だから、むしろ、わたしが思うのは、こうだ。標準的だからnormalだから、わたしたちは不具合に見えないのではなく、不具なのに、不具だと見させない作用があるのではないか、と。

 

 手がない人だって、他の要素は健康(これも疑問符をつけないとならない概念だけれど)であって、もしかしたら健康的でnormalだとされる人より、手以外の要素は勝っているかもしれない。というか、そういうことは、きっとぜんぜんありうるだろう。

 みな、なにかしら不具はある。身体的な病気や、精神的な不調など。normalな自己というのは、理想なのに、それがあたかも現実化されているように見える、というかそのようなフィクションが、力を持っている。つまりnormalとは、あまりにも理想的なのかもしれないのに、わたしたちの横にはそんなnormalがたいてい、いる、というふうにいわれている、と思う。

 俺はnormalではない。しかし、一見したところ、normalに見える。

 そんなことをいうとき、わたしたちは、正常とかの概念をいやらしく思う。正常とは、明らかに、不思議だし、なぜわたしたちは、正常であることに、こだわるのだろうか。

 正常であることにこだわるから、目立ちやすい異常なものを強調することで、わたしたちは自分の異常性を隠し、わたしたちは自分が正常だと錯覚する。そしてその錯覚を本当だと思う。正常さは、しかし、なぜそこまで追い求められるか。わたしたちは、異常を異常として強調することで、偶然的に自己の異常性が発露されない。ある世界では、わたしのように、体毛の濃いものが、差別されていても不思議ではない。容姿がよいものが差別されていても、不思議ではない。なにが、差別されるかは、かなりアトランダムなものに感じる。

 まあ、ぜんぜん論理的には程遠い。しかし、なぜ論理的に書くことが、唯一の正解とされるのか。それがわからない。文章とは、そのようなものか。

 

 正常であることは、わたしたちを支配する。規範であること。倫理ではある。恐ろしい倫理だ。正常とは違う形での、倫理を求めたい。それがいま書けることの最後のことだ。まだいける。正常でなくても、倫理的であるような倫理はないものか。倫理もnormalや正常は、分かちがたく繋がっているのか。よくわからない。